某章 「記されざる日常」
「ねえ。この冊子、何?」
蒼梧の部屋をいつものように漁っている緑翠は部屋の主に訊ねた。
問われた本人は緑翠の背中で愛用の楊杖を磨いている。
「……冊子?」
特に問題の無いものなら生返事で返すのが通常だが、今回は蒼梧の身に覚えが無い様子の返事が返ってきた。
「冊子」
箪笥(たんす)の奥に布に包まれ大切に仕舞ってあったと思われるそれは、緑翠の手によってその姿を露わにしていた。
それを見た瞬間、蒼梧の表情が凍る。
「…………!」
緑翠が探し出した謎の冊子の内容を確認しようと表紙を軽く開く。
しかし、その手には今あった冊子は無く、代わりに蒼梧の手にそれは収まっていた。
「……これは、駄目だ」
取り上げるように緑翠の頭の遥か上に掲げ、一言紡いだ。
突然の蒼梧の行動に最初は目を丸くしたものの、すぐにその表情は裏のある笑顔に変わる。
「何。それを見られたら困るって?」
「…………」
緑翠の言葉にもだんまりを決め込む。
そのまま元から包んであった布で冊子を丁寧に包み、背の低い緑翠の手の届かない本棚の奥へ仕舞う。
「ねえ。それ何ー?」
「…………」
「何ー? 何か俺に見られちゃいけないものでも書いてあるのー?」
「…………」
「日記かなー? それとも何かなー?」
「…………」
「ねえー! 何書いてあるのーっ!?」
流石に苛立った緑翠は地団太を踏んで頬を膨らませる。
緑翠を見向きもしない蒼梧は先ほどの楊杖を磨く作業に戻った。
「ねえっ!」
もとより気が長くは無い緑翠の苛立ちは最高潮に達する。
その時、戸を叩く音が部屋に響いた。
「緑翠殿、おられますか」
控えめな、紫の声。
部屋の主の蒼梧は戸を開け、紫と対面する。緑翠も後ろに続いた。
「どうした?」
訊ねると紫は心底恐縮した様子でぽつりと呟いた。
「緑翠殿、本日の修行の時間に遅れております。お急ぎ下さい」
「え、今日修行の日だっけ!?」
「はい。先日ご連絡差し上げた筈なのですが……」
目を伏せ、少し困惑したように言葉を濁す。
「そういえばそうだったっ! ごめんね紫。今行くよっ」
慌てて蒼梧の部屋を飛び出して自分の修行場へ走っていく。
「うわーっ。怒られるーっ!」
緑翠のその言葉だけが廊下に木霊している。
取り残された紫は同じく取り残された蒼梧を見た。
「蒼梧様」
「何だ」
紫の目線に気付き、目を合わせる。
「よろしいのでしょうか……。何やら込み合ったお話中だとお見受けしましたが……」
統領直属の側近の気遣いに、蒼梧は小さく笑った。
「いや」
先程緑翠に問い詰められた原因の冊子を収めた戸棚を横目で見る。
「助かった」
「?」
状況が飲み込めない紫はいつも通りの微笑の中に疑問符を作り、首を傾げた。
「何でも無い、こっちの話だ。紫こそ、いいのか? 緑翠達の修行があるんだろ?」
「はい、これから行って参ります。それでは失礼致します」
礼儀正しく礼をして蒼梧に背を向け、緑翠を同じ方向へ歩いていった。
その背中を見送り、蒼梧は自室へ戻って再び楊杖を磨き始める。
もう既に最後に仕上げの磨きを残していただけだった作業はすぐに終了し、蒼梧は楊杖を持った手を伸ばし、遠目に磨き加減を確認した。
「よし」
作業を全て終了し、部屋にかけてある時計で時間を確認する。
「そろそろか……」
今日の自分の修行の内容を思い出し、立ち上がる。
先程緑翠に引っ張り出された冊子を仕舞った本棚へと目をやり、苦笑する。
「まさか、これが……」
……料理本だとは。
「……緑も知らないだろう。あいつに言ったら笑われるだけだからな」
軽くため息をつき、そのまま蒼梧は自室を後にした。
―了―